典礼と教会音楽
豆知識
当会の常務理事として長年にわたって貢献された故・増田 洋氏(典礼研究家)が初心者向けにわかりやすく解説したひと口メモです。
賛美と祈り
グレゴリオ聖歌はミサの中で会衆に歌われるために作られました。その歌唱を通じて全身で神を賛美する「祈りの深呼吸」のようなものです。残念な がら我が国のカトリック教会においては、日本語聖歌の普及とともに、グレゴリオ聖歌は日の当たらぬ場所に追いやられているのが実情です。グレゴリ オ聖歌の流麗さ、人々を魅了するはかりしれない力を考えれば、これは宣教上の大きなマイナスと申しても過言にはあたらないでしょう。
現在、グレゴリオ聖歌は世俗の合唱団が開催するコンサートやCD、YouTube等で「美しい音楽として鑑賞すること」が一般的になっており、 本来の存在意義が見失われかねない危険にさらされています。合唱団やCD製作業者の大半はカトリック信徒ではない未信者の方々です。皮肉なこと に、カトリック教会の宝であるグレゴリオ聖歌が未信者の努力によって護られているのです。必然的にグレゴリオ聖歌を鑑賞する場所も「教会の外」と なります。
我が教会の財産を次世代に継承することに尽力されている未信者の方々には心から感謝の意を表してやみませんが、グレゴリオ聖歌の鑑賞は賛美でも 祈りでもない普通の音楽鑑賞にすぎないことも認識する必要があります。
本来のグレゴリオ聖歌とは一体、どのようなものなのでしょうか。グレゴリオ聖歌の重要性を説いた下記の論説が明確な回答を示します。
論点
当会名誉会員、赤羽根恵吉氏が某オピニオン誌に発表した論説です。
高位聖職者、有識信徒の正論
カトリック教会に大きな躍進をもたらした第2バチカン公会議は教会内に保守派陣営と革新派陣営の対立という傷をも残しましたが、当会は「昔の風習は良かった、今の風習は堕落している」と主張する懐古趣味の団体ではありません。又、第2バチカン公会議の決議に疑義を呈する教会内の一部のグループとも一線を画しています。当会は第2バチカン公会議の歴史的意義を高く評価し、第2バチカン公会議が示した新しい教会のあり方に共鳴しています。
しかしながら、近年、教会内において、本来、対立することが有り得ない二つの事柄を無理やり対立させて、一方(主に新しい風習)のみを善として、他方(主に古い風習)を悪と決めつける短絡的な思考が罷り通っていることを残念に思います。
「祈り」と「行い」(神への愛と隣人愛)、「司牧」と「宣教」、「観想」と「活動」などは一枚のコインの表と裏です。どちらも大切であり、等しい価値を持つものですが、一方が時代遅れの古臭い習慣であり、他方が時宜に叶ったものとするトレンドが信徒を迷わせている事実は否めません。「ロザリオは無学な人がやるものだ。教養人は社会の変革のために立ち上がれ」、「告解は復活祭の前の共同回心式で済ませればよい。司祭は信徒の告解で貴重な時間を取られるな。街に出てキリストの教えを実践せよ。ホームレスのような社会的に虐げられている人たちを助けるべきだ」というような極端な偏向ぶりが教会の姿を歪めてしまっていることも事実です。
カトリック教会の使命は(1)福音の宣教、(2)秘跡の執行、(3)愛の行為の実践の3点に尽きます。上で例示した告解軽視の論者は(3)のみを重視して、(2)を見落としています。このような風潮は典礼や教会音楽の分野にも波及し、「ラテン語ミサは廃止された」、「グレゴリオ聖歌は過去の遺物である」という誤謬を生むに至りました。
第2バチカン公会議が目指したものは「ラテン語ミサと母国語ミサ」、「グレゴリオ聖歌と新しい聖歌」の共存・調和です。しかし、それが少しもハーモニーになってはおらず、伝統を排斥して、新しいもの一辺倒に傾いている教会の現状に私どもは警鐘を鳴らしたいだけなのです。
このことについて高位聖職者やカトリック関係の論文の多い有識信徒はどのように説いているでしょうか。正論に耳を傾けましょう。
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿
(元教理聖省長官、のちの教皇ベネディクト16世)
白柳誠一枢機卿
(元東京教区長)
尻枝正行神父
(元教皇庁諸宗教事務局次長)
澤田昭夫氏
(当会帰天会員・筑波大学名誉教授、東京純心女子大学教授)
皆川達夫氏
(立教大学名誉教授、音楽史家)
ディオニシオ・ボロビオ氏
(教皇庁サラマンカ大学教授)
教皇庁の指導