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「大聖年」とは?
今年、西暦2000年は、世間一般には「ミレニアム」と呼ばれている。御父、御子-イエズス・キリスト、聖霊の三位一体を唯一の神として信仰するローマ・カトリック教会では、キリスト降誕2000年目を祝って、これを「大聖年」と呼んでいる。
聖年は旧約聖書レビ記に記されているヨベルの年(Jubilee)に端を発し、教皇ボニファティウス8世によって1300年に制定された。ヨベルの年とは、イスラエル人がエジプトから解放されたことを記念する祝祭に年である。レビ記25章10節には次のように記されている。
ヤーウェはモーゼに命じた。「おまえたちはその50年目を神聖なものとし、その地に住むすべての者に自由を宣言しなければならない。この年はおまえたちにヨベルの年でなければならない。おまえたちはそれぞれの所有地にかえり、それぞれその家族のもとに帰らなければならない。
カトリック教会では、「聖年」(the jubilee year、「祝祭年」の意)は、ボニファティウス8世教皇在位の1300年までさかのぼり、ローマへの巡礼とローマおよび全世界での特別儀式で特徴づけられた。本質的には、ローマを訪れ規定された条件に従って祈る全信者に教皇が聖年大赦(the Jubilee) と呼ばれる特別免償を与える1年をさす。
(参考 「現代カトリック事典」 1982 エンデルレ書店)
なお、2000年 大聖年の詳細については下記の小冊子が詳しい
○ 教皇ヨハネ・パウロ二世「受肉の秘儀 2000年の大聖年公布の大勅書」
(1999 カトリック中央協議会)
○ 「キリスト降誕 2000年 大聖年」(1999ドン・ボスコ社)
○ 「免償を得るために 大聖年巡礼のしおり(大司教認可)(カトリック東京大司教区)
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「聖年のためのミサ」とは?
主キリストの受難と復活を記念する感謝の祭儀-ミサには、いくつかの種類がある。各教会で日曜日も含めて、定刻に捧げられるミサは、教会の定める暦(典礼暦)によるミサである。復活祭のミサ、クリスマスのミサを始め、いろいろな祭日、祝日が定められていて、それに従う。ミサには、この他に、他の儀式(洗礼、結婚など)を伴うミサ、種々の機会のミサ、信心ミサ、死者のためのミサがある。「聖年のためのミサ」は、「聖霊の光を願って」とか、「病者のため」等々のミサと同じ分類の種々の機会のミサに属している。
典礼暦によるミサはもとより、すべてのミサは、その意向にふさわしい聖書の朗読個所、それを味わう詩編、祈願文、奉献文の始めに唱える叙唱、入祭や聖体拝領のときに唱えることばが、ミサ典礼書によって定められている。
「聖年のためのミサ」は、来るべき大聖年に備えて、大聖年の間に執り行われる特別な祭儀において用いることができるよう教皇庁・大聖年準備委員会により1999年 2月27日付けで出された。
ただし、典礼暦が、祭日、主日と祝日、復活の八日間、死者の日、灰の水曜日、および聖週間に当たる場合は用いることができない。また待降節、降誕節、四旬節、復活節中は、ことばの典礼のための朗読は、典礼暦で定められた週日の朗読を用いる。10月14日の典礼暦は、年間第27週の土曜日で上記には該当せず、「聖年のためのミサ」を捧げることができる。
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「聖年のためのミサ」はどんな典礼か?
○ 入祭唱
例年通りメロディーが共通でラテン語、日本語、英語の歌詞のある聖歌を「カトリック聖歌集」から選ぶ。
○ あわれみの賛歌
グレゴリオ聖歌のミサ曲で、最も普及している MISSA DE ANGELIS(天使ミサ カトリック聖歌集 503番)のキリエを歌う
○ 栄光の賛歌
「聖年のためのミサ」としては、必ずしも歌う必要はないが、「ローマ・ ミサ典礼書の総則」(以下 総則と略記)第31条の「特に盛大な祭儀のとき」を適用し歌う。同じく MISSA DE ANGELIS のグロリア
○ 集会祈願
キリストの代理として集会をつかさどる司祭が、聖なる民全体と会衆一同の名によって、神にささげる(総則第10条)祈り。ラテン語 Oremus(祈りましょう)で歌い始め、聖年のための意向の祈りがささげられる。
日本語の意味は次の通り。
恵み深い神よ、あなたは時が満ちたとき、御子を救いの主として世に遣わして下さいました。
御子の過越しの神秘によって、この世を旅するすべての人の歩みが照らされますように。
キリストは聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられます。
○ 第一朗読
イザヤ書 第61章1-3a,6a,8b-9 を朗読者がラテン語で歌う
テーマ 主はわたしに油をそそがれた。貧しい人によいたよりを、よろこびの油を与えるために。
○ 答唱詩編
朗読を味わう詩編は、詩編66,2-3.5.7-8答唱 4(ラテン語規範版の用いている新ブルガタ版の番号による。日本ではヘブライ語版の詩編番号を用いているので詩編67)が指定されている。同一詩編のグレゴリオ聖歌のグラドアーレ(昇階唱) Confiteantur tibi(神よ、民は主に光栄を帰し)を歌う。この曲はトリエント典礼では特定の日の随意ミサ「信仰弘布のためのミサ」の昇階唱に用いられていた。
○ 第二朗読
「聖年のためのミサとは」のところで触れたように、このミサは祭日や主日には行えない。従って第二朗読はないので、答唱詩編に引き続いてアレルヤ唱を歌う。
○ アレルヤ唱
唱える場合のテキストは黙示録 1,5a.6bを参考にしたものであるが、グレゴリオ聖歌のアレルヤ唱には、これに相当するものがないので「聖年のためのミサ」の入祭唱のことば、詩編89(日本では詩編90)のグレゴリオ聖歌のアレルヤ唱 Domine,refugium(主は、世々に、われらの避難所となり給うた)を歌う。このアレルヤ唱は、現在の典礼において、年間第19主日のアレルヤ唱として用いられている。
○ 福音
ルカ 第4章 16-21bを司祭がラテン語で歌う
解説 イエズスは、第一朗読で読まれたあの預言者イザヤのことばを引用して、この預言は、ご自分のうえに実現したと宣言される。つまり、イエズス・キリストこそ、完全な永遠の司祭であり、新約時代の司祭は、このキリストの代理者として、旧約時代に預言されたことを、より完全に実現させねばならないのである。
○ 説教
○ 信仰宣言
「聖年のためのミサ」としては、必ずしも歌う必要はないが、総則第44条の「より盛大に祝われる特別な祭儀」を適用し、ニケア・コンスタンチノープル信経、クレド?V(カトリック聖歌集 508)を歌う。
○ 共同祈願
各国代表者が各国語で意向を唱える。各国としてはベトナム、インド、フィリピン、USA、ドイツ、韓国、日本を予定している。意向の後に唱える共同の呼唱はラテン語で歌う。
○ 奉納の歌
例年通りメロディーが共通でラテン語、日本語、英語の歌詞のある聖歌を「カトリック聖歌集」から選ぶ。
○ 奉納祈願
感謝の祈りの準備として、「聖年のためのミサ」の奉納祈願を、集会をつかさどる司祭がラテン語で歌う。日本語の意味は次の通り。
父である神よ、聖年を喜びのうちに祝い、あなたの祭壇にささげるわたしたちの供えものを受け入れてください。
主キリストは、ご自分の死によって人類を死から救ってくださいました。
わたしたちが主の永遠のいのちにあずかることができますように。
キリストは世々に生き、支配しておられます。
○ 叙唱
奉献文の前の祈りであるが、「聖年のためのミサ」のために新たなものが作られた。司式司祭によってラテン語で歌われる。
日本語の意味は次の通り。
聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも主キリストによって、
賛美と感謝をささげることは、まことにとうとい大切な務め、
初めから御父とともにおられた御子は、
歴史の中におとめマリアから生まれ、聖霊を注がれました。
御子はあなたの名において恵みの年を告げ、
悲しむ人には慰めを、捕らわれ人には解放を、
あらゆる人に救いと平和をもたらしました。
御子が示したまことの新しさは、
すべての人の願いを越えて、いつの時代にも輝き渡ります。
あなたをたたえるすべての天使、聖人とともに、
わたしたちも賛美の歌をささげます。
○ 感謝の賛歌
MISSA DE ANGELISのサンクトゥスを歌う
○ 奉献文
トリエント典礼の奉献文で、第二ヴァチカン公会議後も第一奉献文とされているローマ典文を主司式司祭と共同司式司祭と分担してラテン語で歌う
○ 主の祈り
ラテン語でパテル・ノステル(天使ミサ カトリック聖歌集 503番 272ページ)を歌う
○ 平和の賛歌
MISSA DE ANGELISのアニュス・デイを歌う
○ 拝領唱
日本では、教会で最近ほとんど歌われなくなってしまったが、美しいメロディーから信仰心をおこしてくれた、アベベルム・コープス、タントゥメルゴ、パニス・アンジェリクス、オ・サルタリス、ヴェニ・イエズスなど、懐かしい名曲の数々を歌う
○ 拝領祈願
司祭がラテン語で歌う。日本語の意味は次の通り
いのちのの源である神よ、あなたの食卓にあずかったわたしたちを聖なる者としてください。御子キリストは十字架の上で救いのわざを成し遂げてくださいました。すべての人が、教会の秘跡をとおして、この救いの喜びを自らのものとすることができますように。わたしたちの主イエズス・キリストによって。
○ 盛儀の祝福
通常の祝福の前に司式者が三つの意向を唱え、意向を一つ唱えるごとに会衆はアーメンと唱え盛儀に行われる。
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小教区共同体における典礼に関する司牧指針(東京教区ニュース第139号)
東京大司教区の信徒、司祭、修道者の皆様へ
1.待降節を迎え、全世界の教会は、主のご降誕に神秘に向かう歩みを始めました。皆さま方も、全世界の教会と心を合わせ、人類に愛と希望を与えたキリストの誕生の神秘を迎えるにふさわしい準備をしてくださることを願います。キリストの誕生は、いうまでもなく、私たちにゆるしと和解、平和と一致の恵みを与えるものです。キリストの誕生を迎えるにあたって、いくつかの小教区共同体で、平和ではなくいさかい、一致ではなく分裂の機会ともなってしまった典礼のあり方について、皆さま方の注意を促したいと思い、この手紙をまとめました。
2.私は、この手紙をもって。第二バチカン公会議が道を開き、日本でも第一回福音宣教推進全国会議の提言にみられるような、典礼の土着化、生き生きとした典礼の創造への試みやそのための神学者や現場の司祭・信徒・修道者たちの努力を否定するつもりはありません。むしろ、それは、今後も怠ることなく、責任をもって、続けて行かなければならない、現代の日本の教会の重要な課題であるという確信を持っております。また、それを推進していくことは、専門家だけではなく、日本の教会を構成するすべての信者の責任とも考えております。
3.皆さまご存知のように、第二バチカン公会議は、典礼を大きく刷新いたしました。ラテン語からそれぞれの母国語へ、壁面から対面祭壇への転換などなど、実に大きな変化であったと思います。それに適応していくことは、それまでの典礼に慣れ親しんできた人々には大きな負担であったことも事実であります。しかし、公会議が終わってから二十数年が経ち、新しくされた典礼は、多くの人々の努力によって、日本の教会に定着してまいりました。私は、それで十分であるというつもりはありません。福音宣教全国推進会議が求めた生き生きとした典礼の実現、現代人、特に青少年たちに魅力のある典礼の実現のための努力を続けていかなければならないことを承知しつつ、信徒、司祭、修道者の皆さまには、新たな典礼の試みを小教区の共同体に導入するときには、以下に指摘するような、配慮をお願いいたします。
4.まず、今の感謝の祭儀の典礼でも、司式者の自由な裁量に委ねられている部分があることを、皆さまに喚起したいと思います。集会の時、場所、目的、参列する人々の層などに合わせた、ふさわしい表現を工夫することがゆるされております。ともすると形式的になりがちな典礼を避けるためにも、ゆるされる範囲内での司式司祭の一層の努力をお願いいたします。
5.内容にもよりますが、一般に行われている感謝の祭儀の式次第と大きく異なる試みを行うときには、主日のミサの時間帯で行わないようにしてください。任意に信者が参加できるような主日の午後の時間帯やその他の日・時間等に行うよう配慮を願います。また、事情により、主日のメインの感謝の祭儀の時間帯で行うときには、私の認可を求めてください。
6.また、司式者の自由な裁量の枠を越えた典礼を試みようとするときには、その試みの内容とその理由等を含めて、書面をもって、教区長である私の認可を願ってください。内容によって、司祭評議会に、あるいは典礼委員会に諮った上で、私が最終的な判断をくだし、認可を与える場合には、私の責任において許可したいと思います。またすでにそのような試みが、小教区共同体に導入されているところでは、改めて、私の方に連絡し、認可を求めてくださるようお願いいたします。
7.また典礼のあり方に対するいくつかの小教区共同体のトラブルを見るとき、これからは司祭たちのコミュニケーションと相互理解を図っていく必要があると痛感しております。小教区の司祭の人事異動によって、典礼のあり方に対する司祭の考え方・やり方が異なることによって、これまで、司祭たちの間に誤解が生じてしまったこともありました。また、受動的な立場にある信徒たちが、戸惑い、混乱し、それをどこに訴えてよいかわからずに途方にくれていたケースもありました。また、典礼に対する司祭たちの指導をめぐって、小教区の信徒たちと司祭の間、あるいは信徒たちの間に対立が生じてしまうこともありました。こうした不幸を避けるためにも、典礼に関して、司祭同士の対話と相互理解を深めていくことが必要であると痛感しております。司祭評議会とも諮り、具体的な方法を考えたいと思います。また、教区民のすべての方々が、これまで以上に、典礼についての研修・勉強を深めていくことができるよう、早急に具体的方法も考えて行きたいと思います。
8.典礼の中心にあるものは、キリストの十字架と復活です。それはゆるしと和解を実現した救いの神秘です。これを考えるとき、典礼のあり方をめぐって小教区共同体のメンバー間の誤解、対立、分裂は、愚かなことです。典礼のあり方をめぐって、お互い裁くことのないようにお願いいたします。小教区共同体は、実に、考え方・感じ方の異なる様々な世代の人々によって構成されております。昔の典礼や聖歌に身も心も慣れ親しんできた人々もおれば、新しい典礼聖歌しか知らない人々もおります。古いカトリック聖歌を歌いたいと思う人々もいれば、それは典礼にあわないという人もおります。しかし、そのために、裁かないようにしてください。お互いに受容し合ってください。小教区共同体の中には、パウロがローマの教会への手紙において記しているように、信仰の強い人もおれば、弱い人もおります。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜ばかり食べているのです。食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。(中略)したがって、もう裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや妨げとなるものを兄弟の前に置かないように、決心しなさい。(中略)あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛にしたがって歩んではいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。」(ローマ14章1~15) 私は典礼のことで小教区共同体の兄弟姉妹の心を傷つけ合うことのないよう、どんなに思い・理想が異なっても互いに受け入れ合うよう、皆様方の愛の目覚めを改めてお願いいたします。
むすび
わたしたちの間にまもなくおいでになる、幼子イエス・キリストの柔和が、小教区共同体を照らし、それを生かす光・力になりますように。
1996年12月2日
東京大司教区教区長
枢機卿 白柳誠一