ZENIT通信のインタビュー記事より
ディオニシオ・ボロビオ氏はカトリック通信社、ZENIT通信が2003年7月1日に配信した記事の中でインタビューに答え、次のように語っておられます。(翻訳・川崎重行)
Q. あなたは典礼をどのように信徒に説明されますか?
A. 「儀式」、「集い」、「祭礼」というカテゴリー別に説明を始めることが可能でしょう。カテキズムがそうであるように、典礼的な視点のみならず、人類学的手法をも用いて、典礼の構成要素を明確にするのです。何が祝われるのか、誰が祝うのか、如何に祝うのか、いつ祝われるのか、どこで祝われるのか、と。 神が人類を愛し続け、救いの手をさしのべ続けるという真理を賛美と感謝のうちに認識するキリスト教共同体の儀式というものは、典礼行為を通して、教会において挙行されるのです。
Q. 典礼の儀式的意味は失われてしまったのでしょうか?
A. その逆説も成り立つのではないでしょうか。第二ヴァティカン公会議以降、共通の行為、集会への参加、共同体の儀式と解されるもの、これらは典礼の儀式的意味としては、むしろ強化されたとも思います。一方、我々は常に形式至上主義、ある種のリベラリズム、典礼土着化主義の危険に脅かされている、というのも真実です。理想的な典礼儀式というものは常に不確かなものです。典礼の進歩というものはいつの世にも欠くべからざるものなのです。
Q. 宣教か秘蹟かという優先事項をめぐる論争は典礼学者と司牧主義者との間で今でも進行中なのでしょうか?
A. それは宣教、秘蹟という言葉の解釈にもよりますが、「宣教か秘蹟か」、「教理か典礼か」、「礼拝か日常か」、「大衆中心かエリート中心か」といった二者択一的なアプローチに由来するかつての論争の大部分はすでに克服されていると断言して差し支えないでしょう。全ての宣教は秘蹟的であり、全ての秘蹟は宣教そのものなのです。本来のアプローチは二者択一的なものではなく、相互補完的なものです。
Q. 儀式の多くは信徒の心に響きません。この状況はどのような努力で打開されるでしょうか?
A. この点について即効性のある解決策はありません。仮に儀式を執り行う人々、とりわけ司祭に焦点を当てた場合、いけにえを捧げるという行為をより上質なものに変える必要が認められるでしょう。つまり、十分な準備、祝典を司るに相応しい心構え、ご聖体を授ける者としての資質等があげられるでしょう。会衆に焦点を当てれば、我々は典礼的イニシエーション、能動的に参加する態度、典礼に秘められた象徴を解釈する能力等を向上させる必要があります。さらに儀式の媒介となるもの、すなわち、言葉と「しるし」に焦点を当てれば、もう一つの留意事項が付け加えられます。それは可能な限り、典礼に用いられる言葉や「しるし」を改善、順応させるということです。
Q. 典礼の領域において、ポストモダニズムによる革新はどの程度行われたのでしょうか?
A. その問いに対する回答には、ポストモダニズムなるものの解釈の明瞭化、及び文脈、状況の識別が要求されます。とはいえ、ポストモダニズムのメンタリティー(精神性)の底流には、理想の低減、自由と個人主義の高揚、「人知」への傾倒、或いは宗教的拡散、伝統や規範に対する拒絶といったものが流れていると言えるでしょう。これらの精神は全て「束縛のない宗教」を目指し、歴史を通じて構築された正統的儀式とそこから生まれた相関的調和の美を拒絶する方向に進みます。そして、必然の成り行きとして、典礼儀式そのものが持つありがたみとその典礼に参加する喜びの感覚を狂わせるという反動を呼び起こします。
Q. 形式至上主義に陥ってしまうことを避けるにはどうすればよいのでしょうか?
A. はっきり言えることは我々自身が儀式の一部であり、我々は儀式を必要とするということです。これが儀式の本質なのです。儀式の中に問題があるのではなく、儀式に臨む我々の行為のうちに問題があるわけです。儀式に臨む我々の態度のうちに、儀式が影響を及ぼす我々の日常のうちに・・・儀式に秘められた深い意味を正しく解釈しないことが問題を生むのです。 我々は儀式を必要とします。けれども、儀式は時として危険なものにも成り得ます。我々が儀式を悪用したり、本来の意味を正反対に変えてしまったり、儀式を何かの道具にしてしまう時に危険は生じるのです。そして、この危険は実際に司祭の上にも信徒の上にも起こり得ます。信仰、誠実、真理、向上心、自己を完全に神に委ねるという謙虚な心によってのみ形式至上主義は回避できるのです。