Happy Easter 2021

 主のご復活おめでとうございます。

 今年もこの佳き日を迎えることができました。以前のように祝賀会などが開催できず、地味なイースターではありますが、お恵みのレベルが下がったわけではありません。大いに神を賛美し、共に喜び歌いましょう。

 長期化するコロナ禍は「恒常的な四旬節」のようなものかもしれません。新型コロナウイルスを通して神が私たちに何を語っておられるか、何故に人類を鞭打たれるのかということを黙想する日々が当分の間、続きそうです。

 政府は二度目の緊急事態宣言を発令しましたが、一都三県ではその期間が延長されました。何を根拠に延長されたのかを知る人はいません。コロナに関して十分に納得のいく説明がなされることはまずありません。

 ステージ●というような指標は人間が勝手に作った目安にすぎず、真の安全度、危険度を示す物差しにはなりません。緊急事態を延長するのであれば、最初から一ヶ月と言わずに十分な期間を設定すればよいのです。そもそも「一ヶ月」という期間はキリがよいだけであり、科学的な根拠のある日数ではありません。

 予測が不可能であるが故に、様子を見ながらでなければ判断を下せないのが国の実情です。延長期間が過ぎ、緊急事態宣言は終わったものの、解除が可能であるという根拠も不透明極まりなく、結局は専門家と呼ばれる人でさえ暗中模索なのです。新型コロナウイルスに関しては、信頼に足る専門家はどこにもいません。

 大阪では新種株のウイルス感染が拡大しているとのことですが、「緊急事態宣言によって従来のウイルスを封じ込めすぎたのが原因だ」という新説を唱える学者まで現れました。もしこれが本当であれば、「なんのための緊急事態宣言であったのか」ということになります。

 連日、メディアは「●日連続で感染者が●●●人を突破」とか「過去の同じ曜日の中で最多」、「宣言解除後、最多」、「感染者が●●●人を超えるのは●週間ぶり」というようなことを報道しますが、こんなニュースはなんの役にも立ちません。こんな数字を知ったところでウイルスから身を守ることはできません。

 最近はどこにでも消毒液が置かれていて、これで手を清めることが求められますが、人間の体を外敵から守る常在菌まで殺してしまうため、手の消毒は対コロナという観点では有効であっても、他の病気にかかりやすいリスクを伴います。

 ワクチンも同様です。本来であれば何年もかけて実験、検証を繰り返し、無数のデータを採取してから世に出回るワクチンが緊急性が高いという理由により、僅かなデータだけで研究が打ち切られ、たったの一年で製品化されました。副作用を危険視する学者も大勢います。即席のワクチンが対コロナには有効であっても、他の病気を招来する可能性を無視できないからです。又、ワクチンの開発期間中に変異したウイルスが広がりました。その結果、ワクチンが従来のコロナには効果があっても、新種のコロナには対抗できないという説が有力です。

 太陽光線に含まれる紫外線がウイルスを無害化させる力を持つことが一部の学者の実験で明らかになりましたが、政府は日光浴を推奨しません。ステイホームの方針に反するからです。家の中に閉じこもっている行為はウイルスから逃げ回っているだけであり、今日、感染しなかったからと言って明日も感染を免れるという保証はどこにもありません。

 結局は栄養、睡眠、運動によって免疫力を高めることしか真の護衛策はないわけですが、そのことを政府は国民に推奨しません。栄養を摂取するために食品の買い物に行く人が増えても困りますし、運動(散歩等)をするために外出する人が増えても困るからです。

 矛盾だらけの世の中になってしまいました。

 結局、人類はあらゆる英知を結集しても、新型コロナウイルスによる災害を食い止めることができないのです。コロナによる犠牲者数は大戦争による犠牲者数をすでに上回っています。米ソ冷戦時代は核兵器の脅威に怯えた人類ですが、昨今はウイルスという目に見えない敵に怯える日々を過ごしています。

 どの国の政府も無策であると言わざるを得ません。こんな世の中であるからこそ、私たちカトリック信徒は神の赦しを乞い願う祈りの生活をしなければなりません。

 「人知を尽くして天命を待つ」という有名な諺があります。人間の努力だけではどうすることもできないのであれば、神の助けを願う他に方法はないということを悟るべきです。

 コロナ禍は教会活動にも甚大なダメージを与えました。予約をしなければミサに行けないとかミサにあずかるために検温をしなければならないとは滑稽な話です。小教区によっては、「極力ミサに来ないでほしい」としか解釈できない妙なお知らせを掲示しているところもあります。

 ミサに来る人の数が減って喜ぶのは誰でしょうか?

 聖堂から聖水が撤去されて喜ぶのは誰でしょうか?

 オンラインのカテキズム講座を受講する方法がわからず、洗礼を受けたくても受けられない年配者がいます。洗礼を受ける人が減って喜ぶのは誰でしょうか?

 告解室が密閉空間であるという理由で小聖堂で告解(赦しの秘蹟)を実施する小教区もあります。司祭は信徒の顔を見て話をします。これに耐えられず告解をしなくなる人が急増しています。告解の数が減って喜ぶの誰でしょうか?

 ギリシアではギリシア正教の教会に政府が聖体拝領(※正教会のご聖体をカトリック教会は有効な秘蹟として認めている)の自粛を求めて物議を醸しています。人々がご聖体を拝領できなくなって喜ぶのは誰でしょうか?

 このような動きが各国に広まれば、ミサに行っても聖体拝領ができなくなったり、最悪の場合はミサそのものが禁止されることも有り得ます。この最悪の事態を阻止するために、今、熱心な祈りが求められます。

 四旬節が一時的に解除されたような今年の復活祭ではありますが、今後も「自主的な四旬節」(?)が続きそうな気配です。

 秋田の聖母のメッセージにもありますように、勇気ある犠牲的行いは主を慰めることができます。少しでも多くの犠牲(断食や隣人を助ける行為)と祈りを捧げましょう。

 来年の復活祭には今よりも状況が好転していることを願って、一歩一歩前進を続けようではありませんか。