聖ピオ10世会に関して

 痛ましい歴史的経緯によりカトリック教会と袂を分かつことになった聖ピオ10世会(SSPX)に関する公示が東京教区長、菊地功大司教から出されました。(以下参照)

「聖ピオ10世」に関する公示

 当会の荘厳司教ミサ(ラテン語)やグレゴリオ聖歌を愛される方の中にはカトリックの伝統を重んじる同会の支持者も少なくないかもしれませんが、私たちを教導する大司教から出されたこの公示を軽く扱うべきではありません。

 菊地大司教はこの件に関して聖座と協議をした上で同会の司祭が司式するミサが適法ではないことを確認済みです。

 現時点における同会の立場は「カトリック教会において法的身分を有しておらず、同会の聖職者は、教会法上の制裁から解放されているとはいえ、教会において適法に使徒職を果たすことが出来ない」(教理聖省)状態です。

 「適法でない」というのは「教会当局に認められたものではない」という意味です。ミサが無効であるという意味ではありません。相応しい例ではないでしょうが、何か問題を起こして聖職停止処分を受けた司祭が勝手に信徒を集めてプライベートなミサを行ってもそのミサは十分に有効です。(司祭に付与された権能は永遠に不滅)しかし、その司祭は禁止行為を犯したことになります。

 同様に、同会の司祭によるミサは有効ではありますが、その事実をもって同会がカトリック教会内の一組織であるという主張は詭弁となります。この認識を共有しなければ、「有効なミサだから行ってもよい」という結論になってしまいます。

 2009年にベネディクト16世が同会司教の破門制裁を解除したのは、再び一致するための対話を進めるにあたってカトリック教会側が胸襟を開いただけであり、破門解除が同会のカトリック教会復帰を意味するものではありません。問題解決にはまだまだ時間がかかります。

 それ故、同会のミサが秘蹟として有効であっても、教区長の意向(「同会のミサに参加することは推奨できない」)に反した行動をとることは別の次元での問題を生み出すことになります。

 同会が正統志向の強いカトリック信徒の間で非常に人気があるのは、明らかに日本の教会の今までの歩みに過ちがあったことに起因します。教会が当たり前のことを当たり前にしていれば、「本来の教会の姿」に渇望する人々は出現しないからです。

 しかし、この問題はここではひとまず置くことにしましょう。

 今、私たちに求められるのは「教皇と一致した司教の教導に従順であること」です。菊地大司教は重要な案件において独断で指示を出される方ではありません。聖座と緊密な連絡をとりながら、ご自身の見解ではなく常に教皇、聖座の意向を反映させた上で私たちの歩むべき道を明示される方です。このことを今一度、想起していただきたいものです。

 教皇、聖座の意向に不従順な司教の不適切な指示に素直に従っても信徒はなんの罪も問われませんが、そもそも従う義務はありません。しかし、教皇、聖座の意向に従順な司教の適切な指示を無視することは罪になるとまでは申しませんが、善良なカトリック信徒とは言い難いと申せましょう。故なくして司教と不一致の姿勢を見せれば、教会共同体の礎そのものが崩壊してしまうからです。

 聖ピオ10世会が聖座との対話を今後も続けて、正式にカトリック教会に復帰するまでの間は菊地大司教の公示に従うことが常識的なカトリック信徒としての行動となります。

 同会がカトリック教会から分裂した原因については議論の余地があります。カトリック教会側にもなんらかの非があった可能性は残されています。しかし、この件を持ち出して同会の立場を正当化することは断じて許されません。現実は飽くまでも「同会は教会当局によって認可された修道会ではない」ということです。

 同会の現状をひと言で要約すれば、「同会聖職者の叙階は違法であるが、その秘蹟は有効」という非常に複雑なものです。(プロテスタント等の他教派とは明確に区別する必要がある)

 正式にはカトリック教会内の一組織ではないとはいえ、ある意味において非常に模範的な一面を持つ同会は異端ではあっても、通常の異端とは異なります。皮肉なことに一般のカトリック教会よりもカトリック的な要素を持つ宗教団体です。同会の信仰上の熱烈な情熱と見識の高さは賞賛に値します。分かれた兄弟が再び教皇のもとに戻る日が一日も早く実現するためにお祈り致しましょう。